<1> <2> <3>←<世界遺産紀行-その4-です!>

さて、長々と続いてる世界遺産紀行です。

興福寺三重塔から、さらに階段を下りると、猿沢池があります。
人力車のお兄さんがたくさんいて、客引きをしておりました〜
ぱいんもしつこく勧誘されましたけど、
なにせ、貧乏なもので、丁重にお断りしましたー(~o~)

中秋の名月の日には、
この猿沢池で
「采女祭」が行われるそうです!
← 猿  沢  池

猿沢池のほとりには采女神社が建っているのですが、なぜかこの神社、池から見ると後ろ向きに立っているんです。
実は、これには悲しいお話が・・・
昔大変美しかった采女は帝に寵愛を受けていました。ところが、いつしか帝は心変わりをしてしまい、采女は嘆いて、猿沢池に身を投げて自らの命を絶ったそうです。人々は采女の霊を慰めるために、猿沢池のほとりに社を建てたのですが、身を投げた池を見るにしのびず一夜にして、後ろ向きになったそうですよ
采女祭は、この采女の霊をまつる祭で、
猿沢池に龍と鳳凰の形をした船が浮かべられ花扇と共に池を2周回ります。
船には稚児や十二単衣の花扇使がのっており、
松明の煙が水面をはうように流れ、とても幻想的だそうです!
わ〜〜〜一度見てみたいですね♪

では、猿沢池から、奈良町へと入っていきますね〜☆

奈 良 町 の 風 景
なかなか風情のある町並みです〜
古い町屋を借りた、小さなお店があったり、小さな博物館があったりしました〜!

元興寺は、この奈良町の中に建っております〜(^0_0^)

元  興  寺

前身は6世紀末蘇我馬子によって開かれた法興寺(飛鳥寺)です!
<あの中大兄皇子と中臣鎌足の出会いで有名なお寺ですよーっ>

平城遷都の際に今の地に移転され、名も
元興寺と改められたそうです。
かつては南都七大寺の一つとして威勢を振い、現在の奈良市街の南東部を占めていて、
広大な寺域には、金堂・講堂・塔・僧房などが立ち並んでいたそうです。

が、平安時代半ばには、その勢威も衰えてしまいました。
 1451年(宝徳3)におこった土一揆で、金堂や小塔院などが焼失し、
極楽坊と五重塔・観音堂は残りましたが、
焼け跡に民家が進出してきて町になってしまいました。

そのため元興寺は、極楽坊と五重塔・観音堂の二つに分かれました。
1859年(安政6)、五重塔と観音堂が焼け、
古くからの建物は極楽坊の本堂と禅室だけになりました〜(>_<)

じゃぁ、今の奈良町は、15世紀から続いている町なんですねぇ〜!
なんだか伝統を感じます〜〜〜
本当に町の真ん中に建っていて、
目の前にあるのに、どこにあるのか分からなかったんですよ!
建物を見つけてからも、どこから入っていいのか分からなくて、
建物の周りをぐるぐる回ってしまいました〜(^^ゞ

元興寺屋根の行基葺

向かって右が本堂、左が禅室です
*屋根の行基葺の拡大図*
(ちょっと色の変わっているところがそうです)


日本最古の瓦ですよーっ
飛鳥寺から持ってきたそうです。

今も現役で働いているなんてすごいですね〜♪

国宝の本堂には入ることもできるんですよ〜!
普通は、国宝って外から見るだけじゃないですかぁ〜?
ちょっと感激しましたよ(^_^)b

境内には、下のようなおもしろい石もありました!

← かえる石

元々は大阪城にあった石で、江戸時代の奇石を集めた「雲根志」にも載っているそうです。

淀君の霊がこもっているともいわれています。
大阪城にあったころには、堀に身投げをした人も必ずこの石の下に帰るといわれていたそうですーっ

世界遺産とはいいながら、奈良の大仏さまのおわす東大寺や興福寺と比べると、
ちょっと地味な存在の元興寺ですが、
その分、人も少なくて、なかなかぱいんは好きでした〜☆

車を、興福寺近くの駐車場に止めていたため、
再び興福寺に戻り、最後の最後に、
本日のメインイベント、阿修羅さまとのご対面となりましたーっ
ステキでした〜〜〜♪
先日の新聞に、国宝館の床が、
阿修羅像の前だけへこんでる・・・と書いてあったのが分かります。
誰でも足を止めてしまう・・・確かにそんなオーラがありました!
また逢いたいでーす(^。^)

長々と続いた世界遺産紀行、最後までお付き合いいただきまして、
ありがとうございました!
皆さまも、機会があったら、ぜひ阿修羅さまに会いに行って下さい〜(^_^)b

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